直江兼続
直江兼続は愛の文字の兜で有名です。名前は知らなくても兜はご存じの方も多いのでは?
兜は雲形のプレートの上に愛と言う文字を付けた理由ですが、雲の部分は「瑞雲」といい、神仏が顕現する際の効果をみたて、上杉謙信が愛宕神社に戦勝祈願をしたことが記録されているというので、当時の家中に「愛宕信仰」のあったのではないかということになっています。
直江兼続(なおえかねつぐ)1560年-1620年 享年60病死しています。
兼続は上杉氏の重臣である直江氏の後継者。米沢藩初代藩主上杉景勝を支えた文武兼備といわれた人物。
関ヶ原合戦以降、兼続の奔走で家康と和解していきます。このいきさつも見事なのですが、上杉家は家康によって120万石から米沢30万石に減封されてしまいました。米沢の城を守る事を命じられ、守りの固い城下町を建設していきます。
厳封によって財政は逼迫したのに、兼続は旧来の家臣が去ることを禁じていました。少ない石高の土地で家臣・領民を養うため、下級家臣団を城外に住まわせ、田畑を開いて自給自足の生活をさせていきます。おかげで上杉家は、食糧不足・農民不足を解消し、財政も軽減することができました。
また、現在国宝に指定されている「宋版史記」や「漢書」などを集めた文人で、その深い教養と見識は豊臣秀吉や徳川家康からも高く評価されています。
どんな人物だったのか、リーディングしていきます。
髭が濃い人で丸顔の人がみえてきます。兜を被っていました。黒い顔だったのでお面なのでしょうか?陰になっているのかはわからないです。
愛の文字は思ったより小さいなと思いました。
目の当たりは兜が深く、良く見えないのですが、怖そうという感じです。
では兜を取った姿は、背が小さいと思いました。白髪が混じりです。晩年なのかもしれません。蝋燭をもって立っていました。おなかが膨れています。タオルなのか?わからないですが、寒さ凌ぎをしているようにも見えます。
彼は漢文を勉強していたように見えます。頭がいいというか、書物を好んで読んでいたように思います。
その知識は、中国の文献など戦略や政治学のようなものだったように思います。
彼の有名な活躍についていえば、田畑の開墾を奨励、産業と商業の発展、繁栄を取り戻していきました。今の日本にも何か参考になるのかな?と思います。歴史書などの知識が必要なのはいつの時代も同じなのでしょう。
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