僧の道昭(どうしょう)

禅を調べていくと、飛鳥時代の僧道昭(629~700)に出会います。

この方、『西遊記』三蔵法師のモデルとなった玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)(602~664年)に学んで多くの経典を持ち帰り、日本仏教の礎に貢献した人です。

662年に飛鳥寺(奈良県明日香村)の一角に禅院(東南禅院)を建てたという古さです。

当時の仏教で、禅とは、「経文の暗誦」や「禅行の修道」が同じ範疇という事らしいです。

リーディングしてみます。

道昭は座ったままで見えています。目はつり目が印象的。禅は修行の一つ。一番簡単な座ったままということを継続するという我慢の修行になります。数日間座ったまま、眠らない立ち上がらないという修行です。

彼らは精神を強くするという。それには、我慢を修行としているような感じがしてきます。真面目に取り組む。つらいという気持ちを消していく。今の禅の目的と何か違うような気がします。

今の「瞑想」は「整えるため」のようです。

心身共に整えていく。

特に心を整えるとは、雑念、欲望などを手放す事のようです。
それは、我欲を捨てるという事につながります。

今の時代の座禅の目的と共通する部分があるように思います。

リーディングもその際中だけでも、我を捨てないとなりません。思い込みが全てを台無しにするからです。
そのために、呼吸法、瞑想を行っています。

我をコントロールする。我を無にすると、我にとらわれない広い宇宙につながるからです。何も囚われない時間にしていきます。そうなるとリーディングが出来るようになっていきます。

これは、一度で出来るものではありません。毎日、続けていく必要があります。私たちは毎日浄化をしていきます。

出来ることなら、普段から「思い込み」を捨てていけたらいいですね。証拠や事実を無視した思い込みは被害妄想を生んでしまう危険や、人を操作して他人を巻き込んでいくからです。

根も葉もないことをあたかも あるかのように「妄想」は思い込みの典型だと思います。