井伊直弼を暗殺した事件
井伊直弼を暗殺した事件と言えば、桜田門の変ですね。
直弼は兄たちが亡くなったため、35歳で彦根藩主となり、1858年、43歳のときに、幕府の大老に就任します。
そして、天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約を締結したことより反感をかい、将軍家定の跡継ぎを紀州藩の徳川慶福と定めました。これらに反感をもった公卿,大名,幕臣,志士などに対しておこなった弾圧である「安政の大獄」をした結果、1860年3月24日、江戸城に向かう途中、桜田門のそばで暗殺されました。この日は旧暦だと雛祭りの日になります。
チャネリングをしていきます。すると女性のような色白の穏やかな顔の人が見えてきます。何故日米修好通商条約を締結したのかを尋ねると、天皇は「任せる」と話された。それが、勅許していないとなって、あれは、お許しの言葉ではなかったのか?・・・。陰謀だったのか? 直弼を疎ましく思う人たちが命を狙っているという噂は知っていたようです。
暗殺の当日、蓑を着ている人たちが大勢います。大きなもめ事なく、駕籠に刀が刺さっていきます。その位、あっさりとしていたようです。
実際は「6月18日、江戸城内では幕閣が集まり評議が行われました。そこでは、幕閣の多数が即刻調印を訴えますが、直弼は天皇への説明を優先するよう主張し、天皇へ説明するまで調印を引き延ばすことで方針が決定しました。しかし、ハリスに応接する外交官の岩瀬忠震(ただなり)・井上清直が万一の際は調印してもよいかと尋ね、直弼が致し方ないと回答すると、両名はハリスのもとに向かったその日のうちに調印しました。」
歴史で習った調子づいた井伊直弼とちょっと違うように思いました。
結局、襲撃側は、自刃、または斬首刑に、襲撃を受けた彦根藩士も、討ち死に以外の藩士も、藩邸に逃げ帰ったという罪で全員が斬首という哀れな結果になっています。
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