新選組の総長だった山南敬助の脱走の理由

新選組で局長・近藤勇、副長・土方歳三に次ぐ「総長」の地位にまで出世した、山南敬助(やまなみけいすけ)
1833年生まれ陸奥国仙台藩で誕生とされています。

新選組の掟を破り、かれは、切腹をしました。何故そんな事になったのでしょうか。幹部自らが脱走したのです。

彼は隊から脱走をしたのです。

新選組の隊則では「局を脱するをゆるさず」とされ、脱走は切腹と決まりがあり、この掟に基づき、山南は沖田の介錯によって切腹しました。
33歳でした。

事の発端はですが、1863(文久3)年に、近藤勇らの将軍警護と尊王攘夷を目的とした浪士組に参加して京都へ入った際、31歳だった山南も一緒に上洛しました。浪士組の目的は将軍警護と装いつつと尊王攘夷を目的としたのでした。

そして、元浪士組で京都に残留した芹沢鴨・近藤勇・土方歳三ら22人で結成。幕府が反幕府勢力弾圧のために雇い「壬生浪士組」と名乗っていました。

初の目的の通りに上洛する将軍の道中警護に参加し、さらに長州派と一部の公家が画策したクーデターである「八月十八日の政変」の際に御所内の警備に出動し、その時の働きが認められて幕府から「新選組」の名前を拝命されたと言われています。結成から5カ月の間に華々しい業績を残し新選組となった壬生浪士組なわけです。

京で新選組が結成されると、山南は土方歳三とともに副長を務め、初の目的の通りに上洛する将軍の道中警護に参加し、さらに長州派と一部の公家が企てたクーデターである「八月十八日の政変」に御所内の警備に出動し、その時の働きが認められて幕府から「新選組」の名前をもらったと言われています。

結成から5カ月の間に華々しい業績を残し新選組となった壬生浪士組でしたが、伊東甲子太郎が山南を上回る参謀という地位で新選組に入隊したころから変化がありました。のち、山南は新選組幹部としての立場を失っていくこととなったのです。山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残して脱走。病身の沖田が後を追うと、大津で見つかり、屯所に戻りました。切腹 享年33。介錯は山南の希望により沖田総司がつとめました。

山南は文武兼備であったといわれ、また温厚な人柄で京都の人々からも好かれた人でした。

さて、何故彼は脱走したのでしょうか、ス

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