日本三大怨霊2

2024-04-01

菅原道真の怨念は何故「とうりゃんせ」の歌になるくらい怖いのか。よく見かけるのが、天満宮ですが、私は行きはよいよい帰りは怖いということで、素通りしています。

その菅原道真ですが、幼い頃から詩歌に才能を発揮し、11歳で初めて漢詩を読み、18歳で「文章生」(漢詩学・中国史を学ぶ学生)となります。

やがて897年、菅原道真は「右近衛大将」に就任。

このとき「左近衛大将」に就任したのが「藤原時平」です。2人は互いの父の代から顔見知りで仲が良かったのですが、家柄が低い道真の出世は貴族たちからは妬みの対象ともなっていました。

そのうち悪い噂がたってしまいます。菅原道真が醍醐天皇を廃し、自分の娘婿「斉世親王」を皇位に就けようと画策しているというのです。

それで、菅原道真は大宰府へ左遷させられ、菅原道真の4人の子もそれぞれ流罪になってしまいました。

2年後の903年に菅原道真は亡くなりました。それから909年に、藤原時平が39歳で病死。913年には右大臣「源光」が狩りの最中に死亡。923年には醍醐天皇の皇子で「保明親王」が亡くなります。

朝廷は923年、死後20年して菅原道真を右大臣の階位に戻しました。930年、清涼殿が落雷を受けて炎上。

醍醐天皇までが体調を崩して3ヵ月後に崩御。

これも菅原道真の怨霊が原因だと考えた朝廷は、947年に菅原道真を「天神様」として祀る「北野天満宮」が建立。約半世紀近くの間の出来事でした。

現代では学問の神様として有名です。

リーディングしていくと、陶芸か茶碗?にご興味があったように見えます。丁寧に絵柄を見ています。暮らしは悲惨だったというような事をよく読みますが、あまりそんな風には見えませんでした。人柄もおっとりとしていて、人を恨むような人柄にも見えませんでした。

死に関してですが、シルエットのように見えただけなので、私の見方が悪いのかもしれませんが、人に刺されているような気がします。右手で刀をもった人が、突き刺している状態に見えました。

病死ではないと思います。

左遷先でも優秀な道真が目障りだと思う人がいたのかもしれません。

どうやら、彼自身というより、彼を取り巻く憎悪がどす黒くなっているように思います。彼を陥れ、左遷させたのに何やら良い噂が流れて来る。そんなところにまた嫉妬の渦。そんなエネルギーが取り巻いているように思いました。
嫉妬、恨みの念は、人生を狂わせることになるんです。人を呪わば穴二つ。くわばらくわばら